昭和51年12月31日 朝の御理解
御理解 第89節
「此方の道は傘一本で開くことができる。」
此方の道というのは、御道の信心を頂くという事。御道の信心のいわゆる大事なところ肝心なところだと。その御道の信心のいわば道が分かる。ただ金光様の信心を頂いておるからしておるからと言う事ではなくて、金光大神の道を体得したらと言う事だと思うですね。「此方の道は傘一本で開く事が出来る」。もういと簡単な感じに聞こえますけれども。金光大神の道を体得、覚えて開けばまぁこれは簡単に開けるというのですから。ここんところを何時も私は傘ということを安心と頂きますね。
信心のもう究極の所は安心のおかげを頂くという事でしょうけれども。もう安心いわゆる絶対信ですね、神様を信じて疑わないそこから生まれてくる安心。そういう信心が出来たら、そこから道が開けて来る。そこから人も助かるようなおかげにもなって来る。ですから見やすい事ではない訳です。ところがなかなかね、ほんならまぁ安心が、安心の出来るという言葉に安心立命と申しますが、本当にどんな事があっても驚かんで済むとか、慌てんで済む。
もう神を杖についておれば楽だと、安心しきっておれれる信心というのは、そう簡単な事ではないと私は思う。と言うてほんならそういう完璧な御道の信心を体得させて頂く。その後にいうなら人が助かるとか道が開けるということは、なら何時まで何時までたてばそれが頂けるかと言う事になるから、大変また至難な事になります。ですからあのうこの道を頂いていけばこの道を歩いてさえいけば、安心だと言うそこの所までは、出らなければならんという事です。
この道を歩いてさえ行けば、東京なら東京へ行けれるんだと言う確信。東京まで行ってはいなくっても、その道をはっきり、明示して頂くそういう道なんです。そういう意味でなら今合楽で言われる、合楽理念に立脚してと、それに伴ういろいろ御理解を頂きますが、その合楽理念のマスターです。ただこういう姿勢で、こういう生き方になりさえすれば、必ずおかげが受けられるという、確信です。だから歩いていければ必ず、道は開けるという安心です。
そういう意味でこの合楽理念が合楽では打ち出されて、その事に皆んなが焦点を置いて一生懸命信心。だから合楽理念が分かったというだけではない。それを頂いていけば行じていけば必ず、いうなら生神を目指して誰しもが進んで行けれるんだと言う事になるのです。さぁこんな道を歩いて行きよるが果たして、着く所に着くじゃろうかという不安がないでしょうが。はっきりして明示されましたからね。合楽理念というものが打ち出されましたから。だからそこん所の例えば一線上にお互いが出らねければならない。
昨日は井上太郎君の義理のお父さんになる方の、三年の式年祭がここで親戚の方が皆んな集まってございました。大変お父さんがお酒が好きで、そしてまぁ人にこうサービスするのが大変好きだったと言うので、ここの修行生全部もあの御直会に参加させて貰うて、にぎやかな御直会でした。お祭りも大変有り難い盛大なお祭りでした。私は最近霊祭を仕えるたんべんに思うのですけれども。非常にその合楽の関わりある御霊様達が、この合楽理念が言い出されて、合楽理念に耳そばだてておられること。
そしてその修行に取り組んでおられる事。たんべんに感じます。昨日一昨日は、熊谷さんの所のご主人の帰幽祭でした。式年と言う事でありました。帰幽祭でしたが。私があの先日あの椛目の孫のために羽子板を買いにやらせて頂きました話しをしましたが、とにかく羽子板のあの人形がもう生きた人形がいない。生きた人形がおらん。これはあの三月のお雛さんの節句の人形もやっぱそうですね。生きた人形がただもう形のいわゆる何と言うでしょうかね、表情がないと言うでしょうか。
生きた何かを訴えるものがない。以前なあんなんじゃなかった。素晴らしい名人達が、あの作った浮き上げの人形なんか、本当にその訴えてくるような人形があったけれどもそんな人形がない。大きなケースに入って大きな羽子板がありますけれども。それでこんなのはないかと言ったら、あの最後に行ったところで倉庫を調べて貰うたら、一つだけあると言うて出して来たのが昔の羽子板でした。それがあの歌舞伎の連獅子の親獅子あのうを、人形に浮き上げにした羽子板でした。それはもう見事でした。
そのねその浮き上げの人形が、羽子板についておる人形がね。その羽子板から抜け出すところを頂くんです。そして次には舞台目になって、皆さんもご承知でしょうか、あの連獅子というのはあの親獅子と子獅子。親獅子が子獅子を鍛える場面を所作にした舞踊なんです。親獅子と子獅子とが長い白い毛をね、あのあれをかぶってあの舞うお芝居が、東京歌舞伎なんか来るとよく出すお芝居です。そういう場面を頂きましたが先ず第一ね、生きた宗教でなからなければ駄目だという事ですね。
人形でも生きとるごたるという、生きた人間でなからにゃ訴えて来ない様に、どんなに大きな教会であったか大きな宗教であってもね、生きた働きをなくしたのはもうそれこそ、飾り人形のいうなら死んだ人形と同じ事ですから、訴えて来るものも何にもありません。また生きた働きもありません。そういう意味で合楽の場合は、私はその人形は生きとるところからです。しかもその親獅子を私と言うても良かれば、天地の親神様と言うても良いでしょう。
その天地の親神様のいわば御霊なりにお鍛えを頂いて、修行をさせて頂いておられると言う様なお知らせを頂きました。だからその生きた働きを受けておるという、もう生きて動いておらなければ駄目だという事です。いうなら電車に乗っとります。ところがその電車は全然動かない箱だけ、電気に繋がっていない。自分は乗っとるつもりであっても、その動いてないから目的に到達する筈がない。そういう事では安心は生まれません。生きた電車に乗ってそれがどこどこ行きという事がはっきり明示されて。
この電車にこちらの方へ乗れば、どこどこへ行けれるんだと言う、生きた働きのある私は信心でなからにゃいけない。合楽理念というのは、はっきりと行き先をあのう目指して、しかもその電車が動いておるという事なんです。昨日井上さん所の御霊様のお祭りに頂きましたのがね。やっぱりあの三年の式年祭なんだからでしょうか。船に乗って竿で漕ぎよりなさる所を頂いたです。竿は三年櫓は三月と言った様な事が申しましょう。
櫓は見やすい所が竿であの舟を漕ぐと言う事は、やっぱ三年年季を入れなければ、本当には漕げないんだという意味ですね。御霊様もやはりこちらへご神縁を頂いて、ご参拝がありよりました。ですからいうならいうならその徳の船に乗って、それで竿その船を操らせてもらう、言うなら稽古を三年間始めの間はぐるぐる回りよったその船が。それが目的に向って、すうっとこう漕いでいかれる所を頂いた。三年の間にただ色んな修行をされて、だから船に乗ってさえおればよいと言う事ではない。
やっぱりそれを覚えていかなければいけない。そしてほんならその大きな言うならお徳の船にこぎつけて、それに乗らせて貰うという精進をしておる訳である。そしてそのあのうゴルフの練習をしておる場面を頂いた。ゴルフをこう持ってあのう、まぁ腰のひねり方からいうならゴルフを球を打つ時の姿勢は、足はこんな風に踏ん張ってこういう風にせんならん。腰はこういう風にひねらんならんと、誰かが指導しておる所の場面でした。だからほんならこういう姿勢で、こういう風にあれは何ち言うですかね。
あのうクラブ棒ですたいねあの。こういう風に持ってそして腰はこんな風にひねって、こう打てとほんなら教えられてもです。それが始めから自分の思う様に球が動くはずはないでしょうが。合楽理念と言うのはそれです。この姿勢でこういう風に足を踏ん張って、こうやって稽古さえしていけば、良い球が打てれるようになると言う事なんです。例えばほんならその小船を操らせて頂くでもです、始めから船に乗って竿持ってりゃ、自分の思う所に行けるというとじゃない。
やはり三年なっとん期間がかからなければ、その船を動かす事が出来ないようにです。合楽理念というのはねもうこれなら絶対だ、間違いがないんだ。目指す所は生神金光大神なのだ。人間としての幸福の条件が足ろうてくる程しの。いわばあの世にも持っていけ、この世にも残しておける程しの信心が、この道を歩けばそれに到達する事が出来る。いやそれに向って間違いなく進んで行く事が出来るという、その明示されたものが合楽理念です。だから楽理念を一遍通りずうっと覚えたからと言うてです。
ほんならおかげが受けられると言う事じゃない。本気で稽古をする言うならば、足の踏ん張り方からクラブの持ち方からね。または腰のひねり方から、しかも何十遍何百遍とそれを繰り返し繰り返し、稽古をして行きよるうちに間違いのないきちっとした球が打てるようになるのであってね。そこを合楽理念は教えておるのであります。だからそれを覚えたからもう大船に乗ったごたる気持ちでというこっじゃいけん。それば覚えて行じて行かなければいけないという事です。
おかげでいうなら竿の使い方は覚えた。これからはその目的の、大きな船にお徳の船に乗らせて頂くために、漕ぎ寄せていかなければならない。それにはこういう姿勢もいる、こういう稽古もせんならんという事を、はっきり教えられたのが、今合楽で言われる合楽理念であります。だから先生が言うた通りの事を、今日は行じたけれども、おかげが頂かれじゃったという様な事ではない訳です。それを本気で稽古する、姿勢を作って繰り返し繰り返しね。
間違いがないと言われるのですから、間違いがない事を繰り返し稽古させて頂いて行くうちに、なるほど間違いのないおかげも、いわゆる人間の幸福の条件が足ろうてくる。はぁこれならばあの世にも持って行けるだろうと言うおかげ。そこにです言うならば安心が安心立命とは行かんでも、はぁこの道を歩いていけば間違いがないと言う、一つの安堵感というものがあるでしょうが。そういうものをマスターしてです、そして体験を積んでいって、始めて道が開かれると言うのです。
例えばほんなら文章なら文章で、合楽理念を何か最近合楽理念の確立という事が言われますので、様々な角度から合楽理念を纏めつつあります。だからその纏めたものを読めば一遍に、ははぁ合楽理念とはこういうもんだと。先日学院の学官いわゆる偉い先生ですよね。元永井監四郎先生がなさっておられたお役です。学官先生から電話がかかってまいりました。まぁ大体合楽で言うておられる、合楽理念とはどういう事ですかち。お宅の修行生が合楽理念合楽理念とこう言うが。
合楽理念とはどういう事ですかという様な意味の事が、まぁ電話で掛かってまいりました。勿論電話で説明できる事ではありませんかけれども、勿論それが用件じゃなく他にも用件がありまして、その事をまぁ承ったわけですけれども。とにかく妙なこっでね昨日も。まぁ学院生が今日八時から、また御本部の年頭参拝の大変混雑する御用に、五人とも金光へ発ちます。それであんた達がほんなら今度本部のほうへ行ったら、またほんなら合楽理念とは大体どげなこつかと言うて、あんた達が今度は聞かれるに違いはない。
そこで合楽理念とはと言う、例えば一口でいうならばこういう事なんですよと、説明の出来れるところまでは頂いて、そしてそれを学院生活の上に現していかなければ駄目だよと。それで便箋に一枚でも良いから簡単に書いて、あの出すように言っておりましたら、夕べ遅う来たらここへ出ておりました。銘々がそれぞれ合楽理念とはこういう事だと、まぁ分かった範囲の事を書いて出しております。
昨日私夕べ話しておるうちに色んな会合の時。いわゆる合楽で言われるところの、成り行きを大事にすると言った様な事が言われるが、学院のある先生があんた達は、その成り行きを大事にする、成り行きを大事にすると言うて、それは合楽の言葉だから学院では使うちゃならんて。金光教があって合楽じゃろうもん。それ合楽の教えを正面に出してはならない。まぁ妙なこつを言う先生がおるのち私が言うた事でした。
金光大神の信心を頂いて、そこから色々と体得させて貰うた、生粋の言うなら言葉が成り行きを大切にするとか、尊ぶとかと言う事なんですから。それはもう金光教の信心の中にスポット入っていかなければ、おかげにならない程しの言葉なんですけれどね。まぁそういう雰囲気の中にあるのだから、なるほど合楽理念とはどう言う事かと言う様な事にもなって来るのだろうとこう思うのです。
これはもう合楽理念が全教にでもはびこったら、大変なこつと思いよりなさるのかも知れません。こっちはまたはびこらせにゃいけんと思うとる訳ですからね。本当にそうですよ。中に入って広めると神様は仰る。でなかったら金光教は立ち直らんです。合楽理念が入って行かなければ。私はそのくらいないわば確信を持っておりますから、うちの修行生にも学院生にも合楽理念と問われたら、あんた方はどう答えるか。
どう一口で合楽理念とはこう言う事ですよと言う事、を書きなさいと言うて銘々に一枚ずつ書いてここへ出しております。そしてそれを私夕べ、読ませて頂いて成程それぞれの所で、合楽理念をキャッチしている訳です。それを私はあ私が思う所を、一枚一枚に私の言う合楽理念というものを是を書きました。そして是をまた今日学院生に返して、それで汽車の中でも良いから、是を全部出し合って合楽理念と言うものを、一つの纏まったものにして学院に行きなさいよと言うて、渡そうと思っておりますけれどもね。
私が書いとる学院生達が書いておるところではなくて、私がそれに一枚一枚書いておるところをちょっと聞いて頂きましょう。皆さんでもそうです。合楽理念合楽理念ち言うが大体どげなこつのち。そら合楽理念と言うだけではいかん訳ですからね。実際皆さんが行じておられるところから、体験をも交わえて合楽理念とは、こんなに素晴らしい事なんですよ。一口に言うたらこういう事ですよという事なんです。
天地日月の心助かりたい人間の、夕べ夜中に書いたつじゃから、自分で書いた字が分からんごと、はっはは助かりたい人間の幸福の条件が足ろうて来るおかげ。しかもあの世までも持って行かれるものを頂きたい。それには真実一路あるのみ。すなわち天地日月の心になる精進。成り行きを大切に頂くと言う事は、天地日月の心が分かり頂く事になる。天地日月の成り行きを大切に頂くと言う事は、天の心地の心が分かり、日月の心が分かってそれを行じていく事にある。
簡単に言うたら合楽理念とはこう言う事だと言う事に言えます。次には神の心を心とする修行なんですね。神の心を心とする修行。もう大変に難しいごとあるけれども、それを実に楽しく有り難く行じていけれる、根本理念を教えるのが合楽理念だ。これならその気になれば、誰でも生神を目指す事が出来る、自他楽の道だと。大変に難しい事であるけれども合楽で教える所はもう実に楽しくあり、有り難くそれを行じて行けると言う所に、合楽理念の値打ちがあるとです。やると言う気になったら誰でもやれそう。
これは俺にでもやれるなという気が起こる様な表現が、合楽理念の表現です。また内容なんです。信奉者の全部が立教神伝を受けて立つ積りで、神と人との助かりあい「あいよかけよ」の精神を体得させずには置かぬ内容を、感動で受け止められるように解き明かす迫力を感ずる。私が説くところの合楽理念というものは、皆さんどうでしょうか。こんなものを感じなさらんでしょうか。
ただ合楽理念だた話だと言うのじゃなくて、私の説くところそういうものを、皆さんが一人ひとり感じて下さると、私は確信してまぁ説いている訳ですよね。信奉者の一人ひとりが立教神伝を受けた様な積りでね。神と人との助かり合い「あいよかけよ」の精神を体得させずにはおかん、内容を感動で受け止められる様に説きあかす迫力を感ずる。私の話を聞いとって、まぁ修行生の人達がそういう風に感じると。
あの世は暗黒だ、この世で魂を清め、光を受けて、この世の幸せあの世での光明世界に進めと、合楽では説くとこりゃもうですね。だからこう言う事なんかでも、合楽理念の中にすっぽり入ってこなければいけないのです。あの世と言う所は暗黒だと。だからこの世で魂を清め、いよいよを頂いて、あの世での光明世界を目指される。合楽ではそういう風に御霊の世界を説いておるんだと。これも合楽理念の根本になるものですよね。
表行ね表行にては、金光大神の信心の真の体得は出来ない。心行一筋金光大神の世界は開かれる。一切が神愛一切が有難しの世界であると言う様な事を説くのですね。これにもう一つ言うなら。合楽で説くところ、金光大神の御教えが如何に普遍性に富んでおるかと言う事を強調するという事が、もう一つ入って来るでしょう。金光大神の世界があらゆる、どういう宗教よりも優れており、しかも世界中の言うならば人間氏子ならば誰でも分かる。人間で幸福を願わないものはない。
しかも幸福にならせて頂く為には、こういうあり方にならなければならないと言う事が、どこの国の人にでも合点が行くような、いわば普遍性を持っておる。教祖の御教えというものは、そういう普遍性に富んだ御教えだと言う事を、強調しておるというのです、合楽理念はね。これが入ると大体合楽理念の言うならば確立、これは一口に言えばですからね。これを例えばあらゆる角度から、まぁ論文的なものにもしていかなければならない訳であります。そういう事を一通り分からせて頂いて。
それが本当にそうだと分からせて貰うて、中にもあるようにね。そんなら自分たちでもやると言う気になりゃやれるなと。そしてやってみるとなるほど苦しい。けれども有り難い。と言う様な楽しい有り難い生き方を身に付けて、しかも確信してです。この船に乗れば、この汽車に乗れば、間違いなしに東京行きが間違いない。生神金光大神の焦点に向って、一歩ずつでも近付いて行く事が出来ると言う修行がです。なされてから初めて道がはっきりした、道に出たと言う事になるんじゃないでしょうか。
だからこの道を歩けば安心だと言う安心が、そこに生まれる訳です。そういう安心を得てから初めて、傘一本で開ける道という事が言えると思うですね。傘一本で開ける道というのは、合楽理念をマスターして、そして本気で皆がやる気になって、それこそ姿勢はこうだよ、こんなに腰のひねり方はだよと教えて頂いて、本気でそれを稽古すると言う気になれば稽古そのものも、また楽しゅうなってくるし自分の思う様な球が打てるようになるという、有り難いものが楽しいものが伴い頂く。
いうならばゴルフの稽古をするようなものだと言う事です。そういう道に出た時にです。初めてこの道を稽古さえしていけば、この道を行じてさえ行けば、安心だと言う事になります。自分なこの道を行きよるが、果たして東京行きが出来るだろうかと、不安に思いながら、通る道ではなくて、絶対東京行きなら東京行きだと、明示されておるその道を歩かせて頂くという、決心がついた時に生まれて来るのが、私は安心だと思う。そういうところまで頂けたらです。
ほんなら皆さんがね御道の教師として、取次ぎの御用をされても人は助かるようになる。いや必ずしも取次ぎ者にならなくてもね、全信奉者がです取次ぎ者全信奉者にです。合楽ではね。金光大神の一人が受けられたのではない。立教神伝と言うのはね、信奉者の全部が私が天地の親神様から、こういうご依頼を受けたんだ。あいよかけよの道を願うておられる。神も助かり氏子も立ち行く道を願うておられる。そういう願うておられる神様の願いに応えて立とうと言う事をです。
合楽では一人ひとりが感じれれるところまで、おかげを頂いてまいりましたらね、生まれてくるのが安心です。この道この道を行けば間違いない。「あいよかけよ」の道が開けてくる。神様も喜んでくださり自分達も喜んでいけれる道が開けて来る。その一線上に出らせて頂いて、やる気になった時に生まれるのが、傘一本であり安心のおかげであります。不安がないです。間違いなく示して頂いたんですから。そこに初めて傘一本で開く事が出来るという、おかげが伴うて来るわけですよね。
どうぞ。